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内閣府が公表している道路交通事故の動向では、交通事故発生件数はピークであった平成16年には95万2,720件ほどありました。
それ以降事故件数は減少を続け、平成29年には47万2,165件まで減少しています。
それと同時に交通事故負傷者数も平成16年には1,18万3,617人であったのが、平成29年には58万850人まで減少し、全体的な交通事故による負傷者数も減少しています。
大まかに解釈すれば、この20年間でも日本の交通安全は改善されてきていると言えるでしょう。
しかし依然として交通事故による負傷者数は50万人を超えています。
中には、頭部に重大な外傷を負い、後遺症を抱えたまま生きていかなければならない場合もあります。
交通事故が原因で脳に障害を負うことは、決して他人事ではないのです。
そこで今回は、交通事故により発症した高次脳機能障害に関して解説します。
そもそも、脳にはどのような機能が備わっているのでしょうか。
社会生活を送るためには、得られた情報を処理して1つずつの行動につなげていかなければなりません。
そのためには、情報の収集、記憶、解釈、遂行という順序で処理がなされていきます。
脳の中では、これらの役割を担う部位がある程度分かれているのです。
具体的には、左脳が言語的・論理的な解釈を担うとされ、右脳が非言語的・直感的・空間的な判断機能を担うとされています。
そして後方脳(後ろ側の脳)から情報を受け取り、前方脳(前頭葉側)は情報を出す役割(発信)を担っているとされます。
特に言語機能の中枢のある左脳の後ろ側には、耳から聞いた言葉を言葉として聞き取る部位が存在します。
そして左脳の前側には、自分が考えた内容を伝えるための言葉を構成し、発する役割を担う部位が存在します。
左脳は情報を処理しながら、目標の実現に向けて順序だててゆっくりと段階的に進むために必要なプロセスを論理的に生み出していきます。
つまり左脳は、与えられた情報をじっくり吟味し自分の行動につなげるためのリスクと利益を検討し、時間をかけて結論や考えを導きだすことに長けている部位なのです。
一方で、右脳は感覚や直感が働く時に使います。
いわば空気を読む脳の部位と言っても良いかもしれません。
現状の自分の置かれた立場や周囲からの評価、相手が怒っているのか喜んでいるのか、悲しんでいるのか、自分に何を求めているのかなどを瞬時に感じ取って判断し、高速で情報を処理することに長けているのが右脳なのです。
そして右脳は、自分がいる位置や場所、空間の把握などにも大きな役割を担っていてナビゲーションの役割、さらには自分の身体にきたした変調を自覚する役割ももっています。
これらの左右両脳が脳梁(のうりょう)と呼ばれる部分でつながり、処理された情報を共有しています。
高次脳機能障害とは総じて、何らかの理由でこれらのそれぞれの脳が得意としている情報処理ができなくなってしまった障害全体を指します。
高次脳機能障害の主な原因は、脳に直接的に障害を起こす病気、つまり脳出血や脳梗塞などの脳卒中や、交通事故などによる頭部外傷です。
厚生労働省の「平成28年生活のしづらさなどに関する調査」によれば、医師から高次脳機能障害と診断された患者の数は32万7,000人とされています。
そのうちのおよそ8割が、卒中などによる疾患によるもの、残り2割が交通事故などに起因するものといわれています。
交通事故というと外傷が多く取りざたされ、重症の骨折や事故後に松葉杖で歩く姿、手足の不自由さなどがまっさきに頭に浮かぶ方も多いかもしれません。
しかし、これだけが交通事故の後遺症なのではなく、脳に負ったダメージによる障害も数多く存在しています。
ところがその存在は社会においてなかなか理解されないことが多いため、結果として働く場所や過ごす場所なども限られてしまうようです。
高次脳機能障害は、医師の診察に基づいて診断されます。
そのためには、患者の神経機能を評価する必要があります。
医師はどんなところを診て神経機能の診断を行っていくのでしょうか。
まず、意識状態を診ます。
意識状態の検査では、患者がどの程度目が覚めている状態なのかをみています。
活動や思考をするにしても、患者自身が目が覚めていなければ活動そのものを行うこともできず、身体機能が正確に判断できないことになります。
そして次に、全般性注意障害の状態を診ます。
全般性注意障害の状態の検査では、その人がどの程度現状を理解して診察に集中できているかを診ます。
診察中であるにもかかわらず突然どこかに行こうとしたり、問いかけに耳を傾けようとしなかったりする姿勢がみられる場合は、注意障害が存在すると考えられます。
そして情緒の状態です。
診察中にいらだっているのか悲しんでいるのか、感情の起伏が強いのか、そもそも感情の表現が乏しく無表情なのかなどを診て、情動の安定性を評価します。
また見当識といって、現在の日にちや自分がいる場所、そしてなぜここに来たのかなどを問いかけることで、時間的な認識や置かれている立場などが正常にとらえられているかを診ます。
同時に、しゃべり方や問いかけに対して答えが返ってくる速さ、表情の変化や話題への興味の示し方などを評価し、精神的な活動がどの程度活発なのかを評価します。
このように、まずは意識の状態、そして集中力、自分の立場の理解、精神活動の活発さを患者と話すなかで、おおよそその状態を把握したのちに具体的な高次脳機能の評価に入ります。
左脳への大きなダメージがあると、失語症と呼ばれる障害を呈することがあります。
読んで字のごとく言語を失う症状で、言葉を介したコミュニケーションの障害をいいます。
その程度は左脳へのダメージの大きさによってさまざまですが、大まかに2つに分かれます。
1つは、話しかけられた言語は理解できるが、自分が言いたいことを言えないというタイプの失語症です。
医学的には「運動性失語症」といいます。
左脳の前方にあるブローカ中枢といわれる部位にダメージがあると、この症状を生じることが多いです。
2つ目は、話すことはできるが、自分に話しかけられている内容が理解できないタイプの失語症です。
これを「感覚性失語症」といいます。
左脳の後方の部分、ウェルニッケ中枢といわれる部位にダメージを負うと、このタイプの失語症が見られることがあります。
失認症状は、主に右脳のダメージがあると認められます。
特に右脳の頭頂葉と呼ばれる部位にダメージを負うと、出現することがあります。
失認症状とは認識する能力を失う障害のことで、自分の状態や周囲の環境などを認識する能力が害されます。
例えば、自分の身体の変調がわからない、左手足が麻痺して動かしにくいのにそのことを認識できないなどです。
これを医学的には「病態失認」と呼びます。
そして「半側空間無視」といって、左側の空間の認識ができなくなる症状もあります。
これが起こると、常に右側ばかりを気にして左側への注意ができなくなります。
さらには見たものを認識できなくなる「視覚認知障害」と呼ばれる症状もあります。
視力は正常で物が見えているのに、それがなんなのかわからなくなる症状です。
失行症状は、左右どちらかの頭頂葉と呼ばれる部位のダメージで見られることが多いです。
歯磨きやうがい、手洗い、箸の使い方など、日常生活を送るために必要な行動がスムーズに行えなくなる状態をいいます。
歯磨きでは歯ブラシの使い方がわからずひげをそるように顎に押し当ててしまったり、蛇口のひねり方がわからなかったり、手のこすり方が雑で手が洗えなかったりします。
このように、子供のころからできていたはずの日常行為や、道具を使うことができなくなります。
社会で生きていくのに必要な気遣いや感情のコントロールがうまくいかず、自分自身の欲求を抑えることが難しくなる障害をいいます。
例えば感情コントロール障害、欲求コントロール障害といって、自分の感情を上手く我慢できなくなったために無制限に食べてしまったり、計画性もなく大金を使ってしまったりします。
さらには順番待ちができない、買い物や手続きなどが上手くできず、感情を爆発させて人にあたってしまうといったことがあります。
また1つの出来事や考えに極端にこだわり、長い間思考が離れることができなくなる、何事にもやる気が出ず、日常生活を送るために必要な入浴や整容、更衣などもできなくなるような意欲低下、被害妄想、相手の立場や気持ちに対する思いやりの欠如により良い対人関係が築けない対人技能稚拙、誰かがいないと1日の生活が送れない依存や、子どものような性格や考え方に戻ってしまう退行などが認められます。
このほか、過去のことを思いだせなかったり、新たに経験したことを覚えられなかったりする記憶障害などがあります。
特に短期記憶障害がある場合は、さっき話したことや食事を食べたことなども忘れてしまうため、同じことを繰り返し聞いてくることがあり、日常生活にも大きな影響を及ぼします。
さらに遂行障害といって、言語や記憶、行為などの機能が保たれているにもかかわらず、これらを活用した物事の段取りや判断、変化する事態への臨機応変な対応が難しくなる障害があります。
私たちは行動を起こす時にある程度の目標や推測をしながら行動しますが、この遂行障害があると、目標が設定できなかったり、その目標を達成するためにいつまでにどのようなことをやれば良いのかなどの段取りが難しくなったりします。
また、物事に集中して取り組めない、すぐに飽きてしまい違うことに手を出してしまう、それとは逆に1つのことを行っている時に極端に周囲への注意が向かなくなり、その時の状況に応じた注意の変換ができなくなってしまうなどの注意障害も認められます。
高次脳機能障害の診断としては医師の診察が大前提にあり、脳のどの部位に機能的な損傷があるのか、ある程度推測した上で検査が実施されます。
高次脳障害の画像検査では、脳そのものの評価をすることが必要となるため、基本的には頭部MRIが最も有力な検査になります。
それを撮影し、特定の部位に損傷があるかどうか、こと細かに確認します。
もし発症前に撮影された画像があれば、それと比較することでさらに正確な判断ができます。
知能検査(WAIS)を実施し、思考能力や判断能力の有無、意欲の評価、注意の評価などを行います。
また、障害された部位に合わせて前頭葉機能検査(FAB)や標準失語症検査(SLTA)などを実施することで、現状の脳機能を評価し点数化していきます。
これらの評価を見える化することで、具体的にどのような能力が落ちているのかを理解しやすくなるのです。
失語症などは単独で存在することもありますが、その他の高次脳機能に関しては複数の機能障害が合わさって存在することが多いです。
1つだと思っていたものが、検査でいくつかの障害が存在していることが判明し、アプローチの仕方が変わることもあります。
日常生活においては、何と言っても周囲の理解と許容が必要です。
それは家族だけでなく、そのような障害を抱えている方がいることを社会全体で認識することが最も大切です。
そして、高次脳機能障害にはそれぞれの特徴があります。
障害を抱えている部分はあっても、活かせる能力もあり、それを社会の中で発揮できるように制度を整備したり、周囲が柔軟に接したりすることが重要です。
高次脳機能障害に関して解説しました。
残念ながら、交通事故で発生した高次脳機能障害に関しては改善が難しいことが多くあります。
その障害を一生抱えなければならない方も少なくありません。
そうなると、社会の中で生きていくためには何かと時間がかかったり、できなかったりすることがいくつか出てきます。
そんな時、障害をもつ方のことをじっくり待ってあげられるような、寛容な社会であることが必要でしょう。
人口減少が進み労働力が減る日本において、このような寛容性をもつことで、障害を持つ方の社会参加を改めて考える時代が来ているのではないでしょうか。
イニシャル A.S
診療科目:脳神経内科
医師経験年数 13年
平成5年 大阪大学医学部附属病院整形外科 勤務
現在 大阪市住吉区長居の北脇クリニックにて院長を務める
日本整形外科学会・専門医/脊椎脊髄病院/麻酔科標榜医
日本ペインクリニック学会所属
骨折・むちうち・捻挫・脱臼などの症状から背中や首の痛み・手足のしびれ・肩こり・腰痛・関節痛などの慢性的な症状まで、整形外科に関するあらゆる症状に精通する。
地域のかかりつけ医として常に患者の立場に立った診察には定評があり、治療内容や医薬の分かりやすい説明をモットーとしている。